自信なんてない。
常にない。
小説でもコラムでもボイスでもレジン作品でも、世に出す時はいつだってちょっと怖いし不安だ。
他の人の作品を読むと、面白いと思う反面上手く書けない自分がもどかしくなる。
誰も見てくれないのではないか、手厳しい批判を受けるのではないか、自分の表現で誰かを傷つけはしないか、嘲笑されるのではないか……
色んな不安を抱えつつ、それでも世に出す。
思い入れとは裏腹に芳しくない評価だったことも、作者としては「これが?」という出来(だと思っていた)のものが高く評価されたこともあった。
世に放った時点から、作品は作者の手を離れ、他者の評価基準で評価されることを感覚的に知った。
僕は駄文書きだ。
基本的には実用にならず、腹の足しにもならないものを書いている。
いっときクスッと笑って貰えたり、読んでくれた人の気晴らしにでもなれば万々歳だ。
それが上手くいった(かもしれない)ことも、上手くいかなかった(かもしれない)こともあった。
比率で言えば2:8……いやいや1:9かもしれない。
それでもたまにはバットに偶然当たって内野ゴロ位はあったと思うし、運良く塁に進めた時だって一度位はあったと思う。
バッターボックスに立たせて貰える限り、必ずチャンスはある。
駄作率にはかなり自信があるけれど、それでも自分がこの世に産み落とした作品は、まごうことなく僕の子供達だ。
不始末の責任は親である僕の責任だし、他所様の評価が今一つだとしたら、それもやはり僕の責任だ。
だけど先に言ったように、作品は世に出した瞬間から作者の手を離れるものでもある。
自分は駄作だと思った作品がある人を楽しませたり、会心の一作と思っていても酷評されたりもする。
作品はその時、読者のものだとも言える。
作品は我が子だ。
我が子を悪し様に言う親は、果たして良い親だろうか?
そりゃあ、出来の良い子、悪い子がいるのは仕方ないかもしれないし、百歩譲って発表前、まだ自分だけの作品である段階ならばアリかもしれない。
個人的にはそれも良くないとは思うけど。
でも、世に出た作品達は、いわば成人して巣立っていった子供のようなものだ。
彼ら彼女らは、それぞれに生き、様々な人と出会い、もしかしたらかけがえのない誰かに出会うかもしれない。
僕は客観的に見て、決して褒められた人間ではない。
そしてそんな僕を、妻はかけがえのない人だと言ってくれる。
『作者』である父や母が、もし僕を悪く言ったなら、妻はきっと悲しむだろう。
有難いことに、そういう両親ではなかったが。
同じく、僕が書いたもの、世に出した作品について、僕は悪口は言わない。
一人でも読者がついたなら、その瞬間から僕だけの作品ではないからだ。
彼や彼女とともに在る物語を、例え作者でも、いや作者こそ、悪くいうべきではない。
無論著作物は、世に出した瞬間から第三者による批評や批判にも晒されることとなる。
これを『ナシ』としてしまうのは問題がある。
誰かの著作物に対して感想や意見を述べる自由のない世界は、かなりマズイ。
僕がここで言っているのは、作者自身による作品の否定だ。
反省はいい。『こうすればもっと良い作品になったかもしれない』という反省はアリだ。
でも、『この作品は最低だ』『ゴミだ』『糞だ』なんて事は、原作者こそ言ってはいけない言葉だ。
それは、上記したような読者と作品との関係に水を差すという意味だけでなく、『文責』という意味においても、だ。
書いた文章に対する責任。
表現の自由のトレードオフとしての責任。
自分の文章を悪し様に語ることは、この責任を放棄することであるように、僕は感じるのだ。
だから僕は、自分の子供たちを決して悪く言わない。全ては、僕の愛しい駄文達だ。
そして僕は、今日も書く。
多分、死ぬまで書く。